2018年 12月 15日
半島のソクラテス、奥能登のホールデン。
友だちに貸してもらって読んでいた本が面白かった。
『ありがとうもごめんなさいもいらいない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』。
図書館職員泣かせの長いタイトルは、最近の流行なのかしらん。
フィールドワークを仕事とする人類学者ならではの題である。
(奥野克巳・著/亜紀書房/2018年発行)
亜紀書房という出版社のHP(ブログ)「あき地」での連載時タイトルは
「熱帯のニーチェ」だっただけあり、各章の冒頭にはニーチェの著作からの
引用文が掲載されている。これにならえば「奥能登のニーチェ」と言いたいところだが、
物議を醸しそうだし、こちらは浅学非才の身分なので、やめといた。
物心ついてから、「将来の夢は?」「大人になったら何になるの?」と聞かれて
まともに答えられたためしはない。一応大人と言われる年代ではあるが、
なりたいものになれたか、自己実現できたか、と問われれば疑問符しかない。
なりたいと思ったものは、かろうじて2つあった。
一つは「魂の産婆」、もう一つは「ライ麦畑の捕手」。
これを読めば私の精神構造がいかに愚かなものであるかを晒すようなものだが、
それぐらいしか思いつかない。どちらも「職業事典」とか「なり方ガイド」
があるものではない。年収も不明、そもそも職業なのかどううかも怪しい。
高校の倫理の時間に、ギリシア思想に端を発する西洋精神史の端緒を学んだ時、
ソクラテスのようになりたいと思った。これをマジで実践したら、今でいえば
「ウザい」「メーワク」「浮いている」奴だろう。
それから、ある種の人間には青春のバイブルになっている「Catcher in the Rye」
の野崎孝訳を読んで(その頃は、村上訳はまだなかったので)、
そうだ、私もこれになりたい! と激しく思った訳である。愚かである。
私はずっと、世の中は、正しいか正しくないかを基準に動いているのかと
思っていた。でも、実際はそんなことはちっともなくて、
特に日本はそういう原理では動きようのない国で、
もっと情やつながりで物事が決まっていくのだとようやく最近理解した。
夏目漱石が『三四郎』の小説の登場人物に言わしめたように、
日本はもしかしたら「滅びるね」なのかもしれない。
それですら、人類の思い上がりで、地球も自然も人間だけのものではないのだから、
もっと別な視座が必要なのかもしれない。
でもまああまり短絡的な物言いはするものではない、それだけはようやく学んだ。
今年最大の読書の収穫は、『孤独の発明 または言語の政治学』である。
三浦雅士・著/講談社。「群像」の連載を加筆修正して550Pの大作になった。
大変エキサイティングで、面白い本に久々に巡り合うことができた。
これを読むと、古典が読みたくなる、というかそこから理解しないと
日本という国のありようは理解できない。
戦後や明治維新という分断された視座ではなく、
もっと通層低音のように響いてくるコエ(うごめき?)に耳を澄まさなけれなならない。
平家物語と、梁塵秘抄が、ようやく今につながる回路を見出せそうな感じ。
そう思うと、奥能登はとても面白いフィールドなんだな。
by iwashido
| 2018-12-15 18:28
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