2019年 02月 11日
誰にも言わない。
2月です。
今年(2019年)は、節分(2月3日)・立春(2月4日)・旧暦新年=春節=新月(2月5日)というゴールデンラインでした。年末からの不調が徐々に解消されつつあります。はー、やっと新しい年来た~って感じ。一つ区切り越えて、この3連休ようやく正月休み気分(することは多々あり忙殺さててはいるのですが)。
あなたの一番やりたいことは何ですか。
そんな言葉をある人に向けて発したけれど、それはそのまま自分にも返ってきて、
「私の一番やりたいことはなんだったのか。何に時間を使っていれば楽しかったか」
それを思い出し、実行していかないと。残された時間はそう多くないかもしれない。
先日、橋本治が逝き(1月29日)、昨年は石牟礼道子も逝き(2018年2月10日?)、西部邁も世を去った(2018年1月21日)。なんだかとても大きな変化が迫っている気がする。
手始めには改元でしょう。予定調和的な改元。
私は、昭和が終わり平成が始まった時は東京にいたけれど、半旗が掲げられていた昭和64年1月7日土曜日の風景は良く覚えている。時代が変わる瞬間に2度も立ち会えるとは(生きていれば、だけど)。
年末の広河隆一の騒動、あーいうことは日本では「悪い」とすら思っていない男が多いのではないか?
能を語る時に欠かすことのできない世阿弥は、時の将軍・足利義満の寵愛を利用して、
河原乞食に過ぎなかった歌舞伎や猿楽を「芸術」の域に高めた、と
白洲正子の『お能・老木の花』(講談社文芸文庫)にあるけれども、
そういう感覚は(支配者層には)まだ根強く残っているのでは。
そういえば先日、金沢の能楽堂で、「能」というものを初めて見た。
ダンナが「巴」を見たいといので、2月の定例会の演目を見に御伴で行ったのだが
思いのほか、エキサイティングであった。
自我なんて薄っぺらいものをそぎ落とした抽象的なところがむしろ、よかった。
太鼓と、鼓と、笛だけでオーケストラのような音響効果の下地を作るわけですが、
その太鼓と鼓の響きに、民俗学的な、いわばアフリカ打楽器のような
ある種の情念を感じた。そうかこれが日本民族の魂の叫びなのかも。
平家物語を、朗読のCDで聴いたときに初めてその良さが理解できたように、
正月のラジオで「歌会始め」の御歌の朗詠を聞いたときに、
今まで文字だけで文学を理解しようとしていてできなかったことが
いとも簡単に腑に落ちた、取れなかった天上裏に隠された探し物が
ごとんと落ちてくるように。
大事なことは誰にも言わない。秘すれば花、と世阿弥が残したように。
橋本治は自分が死ぬなんて思っていなかったのではないかな。
PR誌「ちくま」の巻頭連載がもう読めないと思うととても残念。
こういうことを大見得切って言える人は、もう出てこないのかもしれないな。
出でよ、第2の橋本治!
ご冥福を心から祈ります。。。本当だよ。社交辞令じゃないよ。
(会ったこともないのにね。でも文章では何度か出会ってたのかな。)
by iwashido
| 2019-02-11 09:42
| 朔のつぶやき
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