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古本LOGOSの 月1,2回古書店。

短距離ランナーの孤独(フィクション)

8月某日 晴れ
     いつからオリンピックは真夏に開催されるようになったのだ。
     昔、ジャポネという国では10月に開催され、開会式の日を記念して
     その国の祝日にした、という話を「オリンピックの歴史」の講義で
     聞いたような気がする。別にボクたちの国では一年中太陽は友だち
     だから、なんていうこともないのだけれど。

     今日は陸上競技、男子100メートル予選の日だ。7組行われ、
     各組上位3着までは自動的に決勝に進める、それ以外に選外でも
     タイムの良かった三人がお情けで決勝進出に加えてもらえる。
     世界が変な平等主義になったせいで、ボクのようなサードパーティ
     の国で足だけ速くて学歴もなく、ストリートでスリまがいのことに
     手を出しかねない人間にも、特待生という名目でトレーニングの機会
     が与えてもらえるようになった。選手の競技人口の拡大か、
     人種差別解消のためか、よくわからないけれど。
      
     オリンピックは国と国を繋いで平和を希求するなんて、よくいうよ。
     それなら特定の地域への意図的な爆弾投下はすぐさま止めて欲しい。
     世界はもう何年も前から戦争状態だ、それが武力攻撃という形を
     取らなくても、経済という名目で国と国は戦っている。 
     ともかく今日は大事な予選なのだ、一組目の3レーンなんて、
     ちょっとドキドキする。コーチは言った、大丈夫だ、お前の
     走りは誰にも負けない、その若いカモシカにような足で真っ直ぐ
     100メートルを全力で走り切れ。おなじ組に誰がいようと
     関係ない、たった10秒だ、息を止めていても走ることができるさ。

     女子の800メートル予選が終わって次はボクたちの番だ。
     待機場所からフィールドに出る、1時間前は棒高跳びの横で
     アップをしていた、30分前には招集がかかり、地下のロッカールーム
     でスパイクとソックスの点検をした、それからリラックスする
     おまじない。ボクの石を握り人生で一番楽しかった瞬間を思い出す、
     仲間たちと村中を気ままに走っていたとき、きっかり100mある
     橋の上の徒競走で一着になったとき、スポーツ特待生に選ばれたとき、
     そしてオリンピック代表選考レースを走り切ったとき。
     順位は関係ない、ボクはただ走ることが好きなのだ。

     そしていま、ボクは大観衆の見守るトラックの片隅にいる。
     なんだろう、こんな感じは初めてだ。皆んながボクたちを見ている。
     そしてテレビカメラが近づいて来る、レーンの各選手を紹介する
     のだ、国の名前が入ったランニングシャツと、自分の名前が印刷
     されたゼッケンを指で指し示す。隣のレーンの男はやけに陽気で
     シャツはイエローだし、頭は編み込みに腕には入れ墨、そして
     ボクにまで笑顔でウインクをしてくる、大丈夫さ兄弟、これは
     壮大なお祭りなんだ、リラックスして走ろうぜ! そう語り
     かけられたようだ。国の代表者の人たちの8割、少なく見積っても
     7割の人の肌は茶色い。黒い、というほど黒くはないが.少なくとも
     白くはない。一番外側のレーンの、北欧諸国の代表は、金髪碧眼で
     まるで物語に出て来る王子様のように見えた。ロッカールームでも
     異質だった。USAの代表も黒に近い肌の人だし、フランスも然り。
     アフリカ諸国やカリブ海、インド洋諸島の人も同様だ、ボクたち
     は仲間だと思う。

     テレビクルーの姿がトラックから消えて、スタートの用意をするように
     促された。スタートの練習は少し足りなかったかもしれない、なんだか
     ルールがその都度改正され、AIだかコンピュータテクノロジーの進化
     で正確に順位が測定される、そしてスタートも、昔のオリンピック動画
     ではフライングでやり直しはよくある出来事だったのに、今では
     フライングは1回でもしたら、失格だ。

     フライングだけはしないように気をつけよう、1から60まで正確に
     一分間のリズムで刻むことはできる、ピストルがなって1秒、スタート
     してしまえばこっちのものだ、ボクはただ走ればいい。
     多分この組の選手でボクは一番若手で経験が少ないだろう。
     世界選手権なんて大会に出たこともないし、オリンピックも初出場、
     こんな立派なスパイクを与えられたのも一年くらい前だ。でも靴が
     いいと走りがこんなに違うなんて、知らなかった。ボクのタイムは
     みるみる縮んで、選考代表基準記録を出すことができたので
     この場所にいることができるのだ、神よ、感謝します。ボクらを
     生ませしめた大いなる女神、我が民族の聖なる神。

     隣の隣のレーンの選手の十字架のペンダントが光ったと思ったら
     レディ、ーセット、ピストルの音が鳴った。ボクは人より感覚が
     過敏だと言われる、目に入るもの、耳に入る音に優先順位がつけられ
     ないのだ。ピストルを聞いてから1秒、フライングするよりも出遅れ
     たほうかいい、とコーチは言った。フライングは失格だが、出遅れは
     挽回できる。綺麗に一斉スタートができた、と思ったところに鈍い
     ピストル音、誰かがフライングしたのか、ボクの目には横一線に
     見えたけれど、走ることを止め、スタートラインに戻ろうとした時、
     審判がボクの方に近づいてきて、赤黒のカードを提示した。

     失格だそうだ。フライングスタートをしたのはボクだった。
     抗議をするが受け入れられない。OH、NO! というが
     むしろサバサバしていた。こんな大観衆に身守る中で昔の
     コロシウムのようなところで競馬のように走ったって何が
     楽しいもんか、きっとコーチには怒られるだろう、おまえには
     欲が足りない、ハングリー精神ってものが、何がなんでも
     勝ってやろうという気持ちを持て、と言われてもわからない。
     ボクは孤児だから、たとえ金メダルを取ったって心から
     喜んでくれる人もいない、お金も欲しくない、あったって
     使うところもない、住まいはストリート、それで充分だ。

     コーチの落胆する姿を想像したら悪いことをした、と
     言って謝ろう。でもボクはむしろさっぱりとした気分で
     二度目のスタートが始まる前に会場を後にした。

     耳の奥で、故郷の風音が聞こえたような気がした。
短距離ランナーの孤独(フィクション)_c0107612_18553013.jpeg
 


by iwashido | 2024-08-04 16:59 | ロゴス&LOGOS | Comments(0)

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