SF通にとっては、まだその時点? と苦笑をかうレベルかもしれない。古典でしょ、といわれれば古典だが、古典で何が悪い? 全てはここから始まっている。『1984』のほうは、大学の演習で原文で読まされた。最初は英米地域研究にいたから。でも英語なんか全く読めなくて早川文庫で読んだ、それも1983年に。これは?十年前にSFとして書かれました。そして来年は1984年です。あなた方はこのテクストを読んでどう思いますか? そのような問いかけのもとで授業は進んだ、語学力に難のあったわたしはその授業はクリアしたと思うが、早々に英米研を離れた。とてもついて行けるレベルではなかった。私が好きなのは言語とは何かを追及する言語学であったり、構造研究。ということで哲学ぽいことをする研究室に転科させてもらった(紆余曲折はもちろんあった、それは省略)。オーエルの描いたこの世界はすでに到来していると思う、2024年の世界のあらゆる地域で。
そしてもう一冊の『華氏451 度』を読んだのは某公立学校の司書をしていた時だ。本が燃える表紙の、やはり早川文庫で。映画もみた、トリュフォーの。これもまた、そこまで来ている世界のような気がする。
ちなみに、本を燃やしたことはありますか?
普通はありませんよね、本好きのひとがどんなことをするわけがない、
だけどわたしはしたことがあります。何回目かの地震で、本棚が倒れてぐちゃぐちゃになった岩浪文庫の、土や汚れや折れの目立つ薄めの本をなん冊か薪ストーブにくべました。本や段ボールは、一瞬火力が強くなってほんとうに蝶々の形のように燃えたあとの灰を残すが、火種や燠にはならないので、ようするに気休め程度の暖しか取れないのであまりおすすめしません。ただ一瞬星大に燃え上がる炎は、その本の内容に問題があってもなくても、恨みつらみを晴らすというか、投石をするのと同じ程度の屈折した愛の表現であるのかもしれない。
それはつまり自分自身に向かって石を投げる行為に似ているのかもしれない。
良い子は真似をしないでくださいね。
「二拠点居住」の項目についてはまた次回に。
