2025年 01月 12日
蜜柑
1月某日 年賀状1枚85円って高いと思いますか。
わたしは何百枚も書くわけではないし、紙派なのでとくに高いとはおもわない。印刷する手間やインク代を考えたら、記念イラスト入、寄付金付きでもいいと思い、今年はそれを使った。余裕をもって準備できなかったので、結局年始もかなりすぎてから、最初はお返事を、それからはいろいろ考えたけれど、去年なんらかの形で具体的に助けてもらったよおもえるひとに送った。多少の漏れもあるかもしれない、誤解や行き違いもあるだろう、メディアの主流がSNSやLINEに移っているのもわかる、しかし、童に恋文を託した平安時代から変わらぬ紙に書いた何ものか(文字)に届けるという行為は、尊いものだと思う。というかどうわたしはLINEの類が苦手なのだ。。。
公式とか常識というものが大いに崩れていると思う、建前もホンネも混ぜこぜだ、書きやすいメディアツールが繁盛するのもわかる、しかし言葉は安易に他人に譲り渡すべきではないというのが私の考えだ。このブログだってFBだって何ものかにチェックされているのだ、先日ある写真をUPしたら、NGになった、、、初めての体験。
そうそう、「蜜柑」だ。芥川龍之介の「蜜柑」を読んだのは、何かの短編集か、模擬試験の国語の設問だったろうか。短い中にぎゅっと詰まった状況描写と心理描写。ああ、こんなふうに蜜柑が、鮮やかに鬱屈した精神を裏返す。時代背景もあるだろう、いまここまでくっきりとした体験を出来るか。鈍行電車さえ四人向かい席は稀になった、窓だってあくかどうか、インドで荷物置き場所にまで人が寝そべっていたあの無秩序はいま日本の都会にはないだろう。。奥能登は、いままさに混乱だ。表面的には、一部分では通常モードに変えりつつある。でもそれはやはり一部なのだ。皆、数字を見て安心する、一次避難所が閉鎖されたとか、仮説住宅の充足率が何%とか、水道復旧率がどうのこうの。 みんな紙一重のところで正気を保とうとしている、危うい雪山尾根歩きのようなものだ。でも、最悪の状態に比べればまし、あの地区に比べればマシ、家があるだけ幸運と思おう、そう思うと泣き言も言っていられない。比べるな、他人と比べるな、
自分の持っているささやかな幸運を支点にしてなんとか日々を保っている。。。
そうそして、私にとっての蜜柑は、ヒヨドリが食べに来るみかんのこと。誰かにもらったか、取ってきたか皮に斑点や焼けがある小ぶりのみかん。食べたら甘いのだけれど、剥くのが上手くいかないから半分に切って、庭の木の枝にさす。すると、いつの間にか、もしくはけたたましい鳴き声とともに鳥がやってくる。どこにでもいるヒヨドリだ。

この子達が、チクチクと、つむつむと、なんとも言えない擬音語でみかんの実を啄むのを見るのが、わたしに取っては芥川が「蜜柑」という小説の中で描こうとした、作者の思い上がりないしは他者への眼差しをひっくり返すにも等しい喜びを運んでくる。人間なんてちっぽけだな、と思う。自然の営みに比べればささやかなことしかできないのに。わたしにとって去年は大地の地震によって祝われた(乃至は呪われた)一年だった。今年はそれにお返しするような気持ちで、ベクトル別のほうへ持っていきたい。埋もれる前に逃げろ! なのである。
けっきょくこのような↓食べ物かアルコールに救われるしかない人間の性。
by iwashido
| 2025-01-12 13:34
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