2025年 01月 31日
目に見える 光はいつも 一瞬の幻
1月某日
「幻の光」(宮本輝)を読む。家人が読め、という。
是枝監督の映画は、能登半島支援の一環としてリバイバルされたのを見た。
尼崎と奥能登の風景が交錯する、いまは変わってしまった風景が切ない。
小説のほうが100倍いいよ、と家人がいう。映画では輪島の別の海辺だけど
小説では「曽々木」だ。「窓岩」も出て来る。地名が具体的なだけ、想像力も具体的になる。その地を知るものにとってはなおさら。
そし小説では、主人公の最初の結婚相手(幼なじみ、というか、初恋の相手でもあるような)が自殺してしまったその理由を繰り返し繰り返し考えて、独り言のように「あなた(自殺した夫)」に向かって内面で語る口調で物語は進む。そこが切ない。生まれて三カ月の幼子を抱えて、20代半ばの女性を一人にはしておけないおせっかいな時代だった、地区だった。縁あって奥能登でやはり妻に死に別れ娘暮らす男の元へ、嫁ぐ(再婚する)。再婚しても彼女の頭の中にあるのは、あの日どうして、あなた(彼)は死んだのか、自殺の兆候を見抜けなかったのか、幼子とわたしを残してどうして、と、自分の内奥と存在そのものを問いかけるような独白がベースにある。表面的には新しい夫は優しい、娘も自分を「お母ちゃん」と読んでくれる、自分の息子も義父(👦にとっては祖父)馴染んでいく、裕福とは言えないかもしれないがなんとか暮らしていける、奥能登でよくありがちな家族の一つに見える。
でも主人公の彼女の胸の奥から、亡くなった夫への問いかけが止むことはない、時には寝言で、時には思わぬ時に、知らない言葉が口から漏れ出している、本人も自覚しないうちに。。。
哀しい話だ、でも希望もないというわけでもない、残された人は生きていかなければならない。
能登半島地震から一年ということで、色々な人がいろいろな形で体験を発表している、応援出版のような本も出ている、写真集、体験記、レポート、日記、俳句に短歌、とても良い事だと思う。だけどどれも真実のようでいて他人事のようでもある、他人なんだからしょうがない、地味な地震だと思われているのだろう、コストパフォーマンスの悪い地区にこれ以上お金落とせないと思われているのかもしれない、能登の人はたくましい、だから過剰な同情は無用だ、だけど本当に支援が必要な人には届くようにしてほしい。。。
わたしももう少しこころのさざなみが落ち着いたら、幻の存在生起の光追いかけるような文章を描きたい、外側の描写はいらない、きっと分かりにくい文章になるかもしれない、胸の奥で欠けてしまったなにか、失われた誰かに何かを問い続けるような文章が書けるまでもう少し時間をください。
